仏教サークルの体験で学んだ事

大学生時代、半年だけ某宗教サークルに参加していました

今から30年前、大学生時代に半年ほど仏教系サークルに参加していたことがあります。 基本は浄土真宗です。●●会の学生部サークルです。 この会は、同じ浄土真宗でも異端と言われているということを後から知りました。 本人たちは浄土真宗の一派と名乗っていますが、周り(本願寺派とか同じ浄土真宗の本流)からはカルトとは言わないまでも新興宗教扱いだそうですね。

・・・あまり情報を出すと特定されそうなので、これぐらいで。

★なお、私はあくまでそのサークルで学んだことであり、他の仏教系宗派の教えとは解釈が違うと思いますし、たかだか半年だけしか参加していませんので、仏教の教えの本質を捉えていないとは思いますので注意ください。

「人生の目的」が大好きな人達

サークルでは聴聞といって、講師からの説法を2〜4時間ぐらい正座して聴いていました。 その話の中で必ず出てくる言葉が「人生の目的」でした。

「人生の目的とはなにか。」

「なぜ生まれてきたのか。生物は必ず死がある。ならば死ぬために生まれてきたのか?」

「人生の目的が判らないのにただただ生きている人が大半だ。皆さんは人生の目的に向かって生きてください。」

「仏教はそれを教えてくれるものだ。」

これを何度も何度も説明されました。

1ヶ月もすると先輩とも仲良くなり、抜けるという雰囲気ではありませんでした。

サークル参加後1ヶ月目・・・・合宿がありました

4月からサークルに入って1ヶ月後のGWに合宿がありました。 3つか4つの大学の同サークルが集まって宿をとり、一週間ほど合宿しました。 毎日、説法、レクリエーション、読経を行いました。

その時に出た話は「屏風に描かれた木にぶら下がった人間」の話でした。 屏風を一枚見せてくれました。 その屏風には崖に一本の木が立っており、木の上の枝に人がぶら下がっている絵です。 崖下は海、崖には一匹のトラが人を食べようと木の下で待機しています。 ぶら下がっている枝には蜂の巣があって蜜が垂れています。人は蜜を美味しそうになめています。

「今、生きている人々はこの絵の状況にある。」 「木にぶら下がった人は遅かれ早かれ崖下に落ちて海で食われるか、トラの餌食になるだろう」 「絶体絶命だ。」 「だが、ぶら下がった枝には蜂の蜜が垂れていて美味しそうだ」 「蜜をなめる。美味しい。崖下に落ちることも気にせず、人は嬉しそうに蜜をなめ続けている」 「人はこのような状態だ」 「一時、どんなに満足する蜜が得られても、すぐに死ぬのになぜか満足そうに蜜をなめているのが人間だ」 「貴方はそれでも満足か」

これを何度も教えられました。 このあたりから私はサークルにいるべきかを考えるようになりました。

退会時の私の考え方

そもそも仏教では「救い」を求めて学びます。 ですが、その「救い」とは何のためでしょうか。 そもそもなにから救われたいのがはっきりしていないと救いを求めるわけがありません。 (浄土真宗ではそれに気づかないのが凡人である人間だそうです)

そこで、仏教では「苦」を明確にしています。 よく言う「四苦八苦」です。確か生まれることの苦とか、死別することの苦とかでしたね。

苦は理解できますが、その苦をなくすことは不可能です。 事実、仏教では死なないようにするとは一言も言っていません。 ならば「悲しまないようにする、そのことで心苦しくならないようにする」という心意気を身につければ悟り達成なのでしょうか。そうだとしたらなんだか洗脳みたいですね。

・・・と思いました。 この時点で、「あれ、先祖供養が主体の葬式仏教は否定しないし大切だけど、このサークルがいう仏教はちょっとやりすぎだぞ」と思うようになりました。

さらに、先輩や講師の人たちの行動や物言いが鼻につくようになりました。 なんというか、何かにつけ決まり文句を言うとか。 例えば、学校行事で体育祭があり、その開会式や閉会式で校長や教頭、生徒代表がなにかを言う最初に「我が学園に栄光を。」という言葉を発していると思ってください。「キモい」って思いませんか?そういう感覚です。

もう一度言います。 仏教や浄土真宗を否定するつもりはないけれども、このサークルはちょっと異常だと感じました。講師や先輩もなんだか怪しい目の光り方でした。とても親切でしたが気味の悪い親切というか。

これで夏頃に私は脱会を決意しました。 ここからが大変でしたが、それはまた別の日に書きます。